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 星座の神話 定説検査(8)

星座の発祥/湖に住む怪物蛇が「うみへび座」の訳



まとめ

うみへび座のモデルは、レルナ湖に住む怪物蛇ヒドラです。 湖の怪物蛇なのに「うみへび座」の名は奇妙です。レルナ湖はかつて実在していた塩湖でした。 英語では塩湖を「Lake」ではなく「Sea」とする習慣があり、このために英語でもこの星座を「Sea snake」 と当てることがあります。日本ではこれを直訳したために「うみへび座」となったものと推測されます。


検証・考察

「ウラニアの鏡」の うみへび座。「ウラニアの鏡(Urania's Mirror /英)」は1824年に出版されたカード集
 うみへび座は、全天で最も広い面積を持ち、東西に長く、この星座の頭が地平線から昇り、 尻尾の先まで昇るまでなんと8時間もかかります。 前述の通り、うみへび座のモデルは、アルゴス近郊のレルナの湖に住む怪物ヒドラ とされています。神話が伝えるヒドラは犬の体で頭は9つあって、そのうち 真中のひとつは不死身でした。その血は猛毒で、英雄ヘルクレスもこのヒドラの血に 染まった服を着てしまったことが原因で命を落としてしまいました。
 さて、ここでちょっとした疑問があります。ヒドラは、「湖」にすむ怪物蛇なのに、 なぜ「うみへび座」の名称が与えられているのでしょうか。筆者は、うみへび座の和名 はある誤解が元になった結果と推測しています。
 もちろんヒドラ(Hydra)はギリシャ語ですが、現在英語でも「水」を意味する接頭語 になっています。英語で「水素」は「ハイドロゲン(hydrogen)」,「水力発電」は 「ハイドロエレクトリック(hydro-electric)」, 「水上飛行機」は「ハイドロプレーン(hydro-plane)」等がその例です。

 日本においては、明治期に文部省が発行した天文学教科書「洛氏天文学」(1879・明治12年) には うみへび座 は「南蛇」と訳されていました。また、現在の へび座 は「北蛇」 とされており、黄道を挟んだ南北で両星座を区別したものです。「海蛇」の訳語が 初めて確認できるのは、日本天文学会の機関誌「天文月報」創刊号(1908・明治41年)です。 この和訳の作業には、明治末期から活動した通称「訳語会」が大きく関わっています。 その後1944年「学術研究会議(日本学術会議の前身)」により正式に「海蛇」と定められました。 現在では、日本学術会議においてひらがな表記で「うみへび座」と定められています。

 当時この命名に反対する意見もありました。昭和前期に活躍した 京都大学の天文学者 山本一清(1889-1959)氏と天文民俗学者 野尻抱影(1885-1977)氏は、 東亜天文学会の機関誌「天界」の中で、次にように批判しています。

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●山本一清
『天界』Vol.14 No.161(1934・昭和9年9月号)
題名「天文用語に関する私見と主張(3)」
毎年の春の天に見える Hydra といふ星座がある.これを獨逸(ドイツ)語で Wasserchlange (※1)即ち「海蛇」又は水蛇などと譯するのは宜しくない. 此の原語や意味は,ギリシャ神話にあるアルゴ船の遠征物語り中にある怪獣 を意味してゐるのであって,決して單なる動物の一種を表はしてゐるのではない. 故に,むしろ,神話的な連想を保持するための立て前から,佛語や英語の譯名に習つて, 只「ヒドラ」として置くのが最も穏當であると思はれる.

※1: (注)「Wasserchlange」は「Wasserschlange(”水蛇”の意味)」の間違いと思われます。

●野尻抱影
『天界』Vol.15 No.171(1935・昭和10年7月号)
題名「星座の譯名」
海蛇(Hydra) これは會長提案のヒドラに同感である. ヘール クレースが退治した頭が九つある神話的怪物(※2)の名で,到底邦譯は與へられない. 又,海には何等關係はない.「海蛇」と譯したのは英譯の Water-Snake(水蛇)から來たものと思はれる.

※2: (注)山本一清氏は、ヒドラを「アルゴ船の遠征物語り中にある怪獣」と記しているが、 これは神話の誤解と考えられ、野尻抱影氏は、この部分でやんわりと訂正しています。
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…と記しており、「うみへび」の和名は不適切で「ヒドラ」が相応しいと言及しています。

 大正後期から昭和初期の日本の天文学は、東京大学系と京都大学系はライバル関係にありました。 「訳語会」は東京大学の作った有志による非公式な組織で、一方の東亜天文学会は、 京都大学の山本一清氏が中心となって運営していました。 国際的な星座名は1922年の国際天文学連合第1回総会(ローマ)において、 すでに「Hydra」で統一されていますから、山本・野尻両氏の主張のように和名を「ヒドラ」にする という選択もあってよかったのではないでしょうか。 「訳語会」の議事録は残されていないと思われ、なぜ「ヒドラ」でも「みずへび」でもなく「うみへび」 が和名に当てられたのか、確実なことは不明です。

実はこの星座の英語の訳には、「Water snake」「Sea snake」(※3)の両方が存在していて、 それぞれ直訳すると「みずへび」「うみへび」となり、訳語会は後者を採用した可能性が高そうです。 それでは、なぜ英語の訳に「Sea snake」が当てられているのでしょうか。

※3: 「Water snake」「Sea snake」は、「Water serpent」「Sea serpent」とされることもあり、 「serpent」も「snake」と同じく「蛇」の意味です。

 筆者は、米国の天文誌スカイ&テレスコープ誌の編集者ケリー・ベティー氏に この疑問をぶつけてみたところ、以下の回答を得ることができました。
 ヒドラの住むとされたレルナの湖は、かつて実在していました。レルナ湖は、地中海につながる 湾の奥にあった塩湖でした。英語の習慣として、外海と隔離された湖でも、 淡水湖は「レイク(lake)」で、塩湖は「シー(sea)」と呼ぶというのです。 レルナ湖は塩湖だったことから、「Sea snake」と呼ぶことがあっても不思議ではなく、 つまり英語でも誤解が生じているのだろうといいます。
 確かに、世界最大の湖「カスピ海(Caspian Sea)」は「塩湖」ですし、 イスラエルとヨルダンの国境にある死海(Dead Sea)は、塩分濃度が高いために浮き輪がなくても 人がプカプカと浮かぶ湖で知られています。
 レルナの地は近代の地質調査から、青銅器時代初期(BC3000年頃)のレルナ湖は、 エーゲ海と砂丘で隔てられており直径4.7kmほどあったと推定されています。 そして時代を下るとともに森林の破壊によって泥炭層が蓄積した湿地へと変化し、ついに19世紀には消滅しました。

 「うみへび座」の訳語について話を戻すと、残念ながら当時の日本の「訳語会」の天文学者は、 ギリシア神話のヒドラの系譜をよく理解しないままに、「Sea snake」をそのまま「うみへび」 と訳してしまったものと推測されます。


※ 出典,参考文献
月刊星ナビ 2021年3月号 「エーゲ海の風」 (早水勉)


更新履歴
2021. 3.24 初版掲載


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